本と対話して自分を高める読書法とは何か:平野啓一郎「本の読み方 スロー・リーディングの実践」
2014年4月21日
PHP新書。2006年発行。
芥川賞受賞作家である平野氏が、小説家の視点から速読術を批判し、あえて速く本を読まない「スロー・リーディング」を提唱する。ただの速読術批判ではなく、小説を書く立場だからこそ分かる本に込められた機微を強調し、それを読みとるには「じっくり読む」という姿勢が必要だとしている。
また、ただの本の読み方指南にとどまらず「そもそも読書とは何か」を考えさせる内容になっている。このあたりは、以前に紹介した松岡正剛著「多読術」(ちくまプリマー新書)の議論を援用して考えていきたい。
「速読」は自分の考えを再生産するだけ
さて、速読術は誰もがあこがれると思う。挑戦したことがある人もいるはず。実はぼくも速読の本を何冊か買って読んだ経験がある。しかし、何か違和感があってものにすることはできなかった。
著者はこの本の中で、さまざまな速読術を調べた上で鋭い批判をしている。なんでも目を通した速読術の本は、その方法論ではなく自己啓発ばかりが喧伝されているというのだ。何か分かるような気がする。
さらに批判のポイントになっているのは、速読術で「潜在意識」が強調されている点だ。いわゆる「フォト・リーディング」と呼ばれる速読法が俎上に載せられる。ページ全体を映像として目に焼き付けることで、無意識の中に情報を取り込むという方法だ。しかし、これについて著者はこう批判する。
こうした理論が述べようとしていることは、実際には、見開きページに並べられた文字情報を視覚的に記憶して、思い出された言葉から、およその内容を推論するというに過ぎない。
しかし、そもそも、そうした手間に意味はあるだろうか? 無理にも意味的にではなく、視覚的に記憶した言葉の断片から内容を推論する。しかも、推論されたところの内容は、かなりの確率で不正確である。これは、信頼性の低い読書方法である。(p.41)
ここにある「言葉の断片から内容を推論する」という点が重要だ。いわゆる速読術は、本のページをサーチすることでキーワードを拾う。その基準は自分の関心や問題意識にある。
問題はそれらのキーワードだけを拾い、内容は推測しなければいけないことだ。そして、それらのキーワードをやはり推測で結びつける。これはつまり、自分の頭の中にある考え方の再生産でしかない。でもよく考えれば一つのキーワードを取っても、助詞や接続詞で厳密に結びついていたり、文脈で意味が微妙に変わっていたりするものだ。こんな再生産でいいのだろうか。著者はこう指摘する。
それらはいずれも、読者にとって重要な言葉(引用者注・速読で拾ったキーワードのこと)であり、文脈上、作者が特に強調したかった言葉ではないのである。つまり、読者はそのとき、作者の言わんとするところを理解するのではなく、単に自分自身の心の中をそこに映し出しているに過ぎない。そうした読書の仕方では、多く本を読めば読むほど、自分の偏ったものの見方が反復され、視野が広がるどころか、ますます狭い考えへと偏っていくだろう。
(中略)
感性や無意識に対する盲信は、ときに自分に対する「批評性」を失わせることになる。読書は「作者」という名の他者と向かい合うことを通じて、私たちをより開かれた人間にするきっかけを与えてくれる。(pp.42-43)
この指摘は速読への批判だけでなく、そもそも「読書をするとはどういうことなのか」という点にも触れているといっていい。
本と格闘できない「速読」
読書というのは、本の中から情報を抜き出して自分の糧にするだけの作業ではない。もちろんそういう読み方をすべき本もある。例えば教科書や参考書の類はそれにあたる。
しかし、小説や評論になれば事情が違う。内容を基に、自分の知識や考え方を再構成しながら、自己を高めていくことこそが読書であり、醍醐味だと思っている。
そのためには、本の内容と格闘しなければいけない。格闘とは、本に書かれている内容をきちんと理解した上で自分なりに咀嚼する作業だ。これはとても手間と時間がかかる。難しい大著であれば非常に苦悩するし、年月単位の時間が必要になるかもしれない。しかし、この作業を経ないと本の内容は身につかないし、自分の知識や考え方を再構成できない。読書はそれだけ本気でぶつかる、格闘に比肩するような営みだとぼくは思っている。
では、速読ではだめなのか。この点は先ほど著者が指摘した「推測」することによる「自分の見方の反復」が障壁となる。
自分に都合のいい、あるいは同調できる個所だけを拾う読み方は、本気で本とぶつかったことにならない。対決を逃げていると言っていい。いいところだけをつまみ食いしているようで、いわば栄養が偏った状態になる。さきほどの引用の中で、著者は「自分に対する批評性を失わせる」と書いていたが、まさにこのことだと思う。
作者が仕込んだ思いを読みとるのが読書
そこで出てくるのが「スロー・リーディング」だ。著者はこれを「一冊の本にできるだけ時間をかけ、ゆっくりと読むことである。鑑賞の手間を惜しまず、その手間にこそ、読書の楽しみを見出す。(p.20)」と定義する。
その主張の裏側には、やはり著者自身が小説家であることが大きい。著者は後半で「スロー・リーディング 実践編」として、夏目漱石「こころ」や森鴎外「高瀬船」、三島由紀夫「金閣寺」などの一節を引いている。そこで、小説というものはいかに単語が綿密に無駄なく並べられ、接続詞などでしっかり結びつけられた上で成り立っているかを解説する。そして、どこを切り取っても作者が意図した意味が込められているのが分かる、計算づくの構成だと強調する。それだけ小説は中身が濃い。だからこそ、速読で自分の無意識に任せる読み方は危険だというのだ。また、それだけ綿密な構成なだけに、速く読むのではなく深く読むことが重要だとしている。
もちろん、これは小説に限ったことではない。評論だって文脈はあるし、それによって単語の意味がゆらぐときがある。それだけに、小説だけでなく読書全般に当てはまることと言える。
作者・著者の思いを再構築する読み方
さらに著者は「誤読力」というキーワードを使って、本に書かれている内容としっかりと向き合う必要性を説いている。
「誤読」とは誤った意味を取るのではなく、作者・著者が綿密に計算して本に込めた意味を、読者自身が問いかけをしながら読者なりに見つけだす作業のことを指す。
わかりにくいかもしれないが、これは速読によってキーワードだけを本から抜き出し、自分なりに推測するという読み方とは対極にある。自分なりに作者・著者の意図を探す作業である点は似ているが、単語の群である本を細かく読み込んで、書かれている内容を正確に咀嚼した上で自分なりの解釈を組み立てる。読者の推測だけで成り立つ読み方ではない。むしろ、最後の最後でただ一つだけ「この本の主題はこれではないか」と結論付ける時にしか要求されない。
スロー・リーディングでは書かれている内容をきちんと把握しなければならない。そのためじっくり読む必要がある。必然的に読書のスピードは遅くなる。それでかまわないのだ。
読書は情報収集ではなく「自己を編集すること」
ここに現出する、速読術とスロー・リーディングの違いとはなんだろうか。これを議論するには「読書とは何か」を考える必要がある。少し本筋とずれるが、以前このブログでも書いた松岡正剛著「多読術」の一節から考えていきたい。松岡氏はこの中で、読書についてこう話している。
つまり読書というのは、書いてあることと自分が感じることとが「まざる」ということなんです。これは分離できません。(中略)
ということは、読書は著者が書いたことを理解するためだけにあるのではなく、一種のコラボレーションなんです。ぼくがよくつかっている編集工学の用語でいえば、読書は「自己編集」であって、かつ「相互編集」なのです。(前掲書 p.76-77)
これは松岡氏の提唱する「編集工学」のポイントになるところでもある。読書はただ本に書かれている内容を収集するだけではなく、自分と本との何らかのコミュニケーションがあるとする考え方だ。
詳細はこの本に譲るとして、このコミュニケーションとは何かを考える必要がある。
一方的に本に書かれている情報を抜き取る「速読」的な読み方は、本とコミュニケーションを取っているとは考えにくい。自分に都合のいい情報だけを収集するだけで、読書によって自分の頭の中を「自己編集」するという視点が弱いと言っていい。
しかし、平野氏が提唱するスロー・リーディングは、本の内容について著者・作者の意図をくみ取るような細かい読み方が要求される。これには、本への問いかけを絶えず忘れないことが必要だ。それだけに、読書をしながら自問自答が繰り返される。その自問自答によって、自己が変わっていく。本をただの情報源とするのではなく、対話の相手としているのだ。
この行為は松岡氏が言うところの「自己編集」や本との「コミュニケーション」だろう。つまり、スロー・リーディングは「編集工学」の視点からも正しい読み方だということだ。
また、松岡氏も平野氏も共通して、本への書き込みをしながら読み進める方法を提唱している。本に傍線や記号、思ったことを書き込むことによって、内容の理解を深めたり、そのための補助としたりするのだ。ただの書き込みと思われがちだが、本を自分の血肉とするためのコミュニケーションだと言える。また、再読をする上でも書き込みは大きな補助となる。
「量」の読書からは卒業しよう
ちなみに松岡氏は速読についてこう話している。
速読にとらわれるのがダメなんです。どんなテキストも一定の読み方で速くするというのは、読書の意義がない。それって早食い競争をするようなものですから。(前掲書 p.124)
奇しくも平野氏もこう書いている。
一ヶ月に本を一〇〇冊読んだとか、一〇〇〇冊読んだとかいって自慢している人は、ラーメン屋の大食いチャレンジで、一五分間に五玉食べたなどと自慢しているのと何も変わらない。速読家の知識は、単なる脂肪である。(中略)ほんの少量でも、自分が本当においしいと感じた料理の味を、豊かに語れる人のほうが、人からは食通として尊敬されるだろう。読書においても、たった一つのフレーズであっても、それをよく噛みしめ、その魅力を十分に味わい尽くした人のほうが、読者として、知的な栄養を多く得ているはずである。(p.34-35)
両者とも料理を例にしている点が面白い。
ここには、読書を「質」か「量」かで考える違いが如実に出ている。これはそのままスロー・リーディングと速読の違いだ。もちろん、「量」を取りたいという人もたくさんいるだろうし、それはそれで自由だと思う。しかし、本当に読書を通した「自己編集」で自分を成長させたいとなると、実は効率的なのはスロー・リーディングの方なのではないだろうか。
速読は否定しないが、このように考えると、速読ではどうしても自分の殻を破れないのではないかという危惧がある。それだけに、じっくりゆっくり読書を通して本と格闘するという読み方にひかれる。実際、平野氏が提唱するスロー・リーディングをやってみると、今までとは違った心の動きが感じられると思う。それは松岡氏が言うところの「本とのコミュニケーション」が取れているということだと思うし、何より著者・作者との対話が本を通して実現できているということだろう。
そうなれば、読書の「量」をこなすというプレッシャーからは解放されて、気楽にかつ豊かになれる読書を楽しめるようになるのではないだろうか。