「読書」は「編集作業」 読書術で迫る知性の育成法とは:松岡正剛「多読術」(ちくまプリマー新書)

2013年7月25日

 2009年発行。

 読書術に関する本といえば、書店の本棚の一角を占めるかのような量が発行されているが、どれも一長一短。そんな溢れる読書術に疲れたり、つまずいたりと感じる人には、この本がいいのではないだろうか。

 「編集工学」を提唱する著者が自身の読書遍歴などを振り返りながら、その「編集工学」の神髄を通して読書論を紹介する。聞き語りで構成されており非常に読みやすくシンプル。分量もそれほど多くないが、内容は示唆に富む話ばかりだ。

 さて、読書というとどうしても本の内容を読み取り、自分の中にストックするという視点を考えがちだと思う。こう考えはじめるとなかなか読書がうまくいかない。読んだそばから読んだ内容が抜けていってしまう。苦労して読了しても、読んだという事実だけが残るだけで、中身が思い出せないなどということが多々ある。というか、そんなのばかりだ。それで読書が苦手になってしまう人も多いんじゃないかと思う。

 その点について著者は、読書とは自分の頭の中を「編集」することだとして、考え方を少し改めることを薦めている。必ずしも本の内容をストックするためのインプットではなく、内容を取り込み、自分の中で編集するのだという。

 どういうことか。著者はまず「編集工学」についてこう定義する。

編集工学というのは何かというと、かんたんにいえば、コミュニケーションにおける情報編集のすべてを扱う研究開発分野のことです。人々のあいだ、人々とメディアのあいだのコミュニケーションです。(p.98)

(前略)「形式的な情報処理」ではなくて、「意味的な情報編集プロセス」を研究して、そこに人々の世界観がコミュニケーションを通してどのように形成されていくか、変容されていくかということを展望することが目的です。(p.99)

これを受けた上で、

私たちが記憶やコミュニケーションや表現をすることができるのは、記憶能力やコミュニケーション能力や表現能力にそれぞれよっているのではなくて、それらを連結させている編集構造によっているというふうになっていくわけですよね。これは、記憶力や表現力よりも、編集力がいろいろな記憶や表現の基本力になっているだろうということです。(p.101)

 と説明する。つまり、記憶やコミュニケーションとは、情報を自分の中にストックするのではなく、情報を取り込んだ上で自分の頭の中を編集すること。その編集作業によって構成された構造が、コミュニケーションなどとしてアウトプットされるという考え方だ。

 この考え方は「編集工学」の肝と言える部分だろうと思う。情報をただやりとりするのではなくて、それをコミュニケーションとして捉え、お互いを編集しあう「意味の交流」が行われる。読書は情報のインプット作業ではなく、本との対話であるということだ。実際、こちらの頭の中の編集だけでなく、本の側をいかに「編集」するかということも、本への書き込みやマーキングなどといった手法や考え方の紹介でフォローしている。

 自分の頭の中を「編集」するといっても別に難しいことではなく、あくまでコツ。考え方の話であって、本の中で感心したり驚いたり、共感をしたりという感覚がすでに編集作業の一環といえるのではないだろうか。

 読書というのは自分のことを成長させてくれる手段であることは誰も疑わないだろう。しかし、読書を知識や情報のストックをするインプットと捉えてしまうと、とたんに読書が作業になってしまい、つらくなる。とはいえ、著者のような本格的な本の読み方をまねしてもつらくなる。では、著者は何と言っているのか。

明瞭に「読書というのは平均的なことをするわけではない」と、強く思うことです。それにはいつも「自分の読中感覚」をできるだけ多様にイメージすることです。(p.126)

 簡単にまとめると「改まらなくて自分のスタイルでいい」ということだろう。流れるままに、感じるままに、驚くままに読書をしていい。そして、著者が薦めるような本への書き込みなどを通して本とコミュニケーションを取る。面白い考え方だと思う。

 さて、著者はさらに読書による「編集」作業について説明を続ける中で、読書の本質的な部分についてこう話している。

第一には、読書は、現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものだと確信していることです。「癒し」というのではなくて、ぼくはアラインメント、すなわし「整流」というふうに言っています。(中略)なぜなら、読書は著者の書いていることを解釈することだけが読書ではなく、すでに説明してきたように相互編集なのですから、そこでアラインメントがおこるんですね。

第二に、そもそも思考や表現の本質は「アナロジー」である、「連想」であると思っているんです。(中略)類推の能力です。アナロジーこそがぼくをイノベーティブにしてくれる。(pp.164-165)

 これまでの読書経験を振り返ってみると、「なんか分かる」という気分になる一説だ。どういうことかというと、別の節で著者が述べていることに集約できる。

本にも「それそれ、それが読みたかった」ということがある。(中略)

やがてそのフィットした本が起点となって、そこに経路ができる。いわば運河ができていく。それをぼくは「カナリゼーション」(運河化)というふうに呼んでいる。(p.168)

 読書をしていると、自分の中のもやもやした考えをきっちりと文章で表現してくれている一文に出会う時がたまにある。まさに「そうそう、それそれ」と膝を打ってみたり、ぐりぐりと傍線を引いてみたりする。引用にもあるようにこの瞬間、まさに本と自分の思考が結びつき、編集作業が行われた瞬間なのだ。自分の頭の中にあった複数の思考の断片が、「そうそう、それそれ」という本の一文による「編集作業」によって一つに結びつけられ、新しい思考のユニットが発生する。これにより、自分の知性が一つ前進、あるいは洗練される。これを繰り返すことにより、引用にある「カナリゼーション」が進む。これこそが読書の神髄なのではないだろうか。

 さらにこれを繰り返すと、自分の中の「運河」を中心に、複数の本がつながりをもって浮かび上がってくる。「確かあの本にも同じようなことが書いてあったな」とか「あの本のあの部分と正反対なことを書いているな」とか、ふと思う時がある。こうして複数の本がリンクし始めると、さらに自分の頭の中が編集される。この繰り返しで、自分の知性がどんどんと広がっていく。

 こう考えていくと、この本がただ読書や多読について論じているだけでなく、人間の知性をいかに育てるかという根源的なテーマについて触れているということが分かる。むしろ、こちらの方がメーンテーマなのかもしれない。

 と、こんな風にいろいろと自分の頭の中を「編集」した上で、組み上がった枠組みを文章にしてみたのだが、これはこれで読み直すとまだまだいろいろ甘いなあと思わざるを得ない。いずれにせよ、「読書とは何か」ということを考えている人にとっては大いに刺激を与えてくれる本だと思う。

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