教養論に通じる「読書」との向き合い方とは:小泉信三「讀書論」
2014年5月26日
1950年発行。岩波新書。
発行年からして古い本で、自分が手にしているのも古本屋で買った昭和28年の第7刷。すっかり色あせており、紙自体も弱ってきている。傷んでいる箇所は紙が破れるというよりかはぽろぽろと崩れるような感じだ。印刷も現在のようにきれいではっきりした感じでもなく粗いところも目立つ。なかなか味わい深い。
さて、著者は天皇陛下の御教育参与でもあった元慶應義塾長の経済学者。そんな経歴もあって、格式の高い読書論になっている。福沢諭吉や森鴎外、夏目漱石など先哲の残した著作のほか、著者自身の研究や読書経験を通して、読書の臨む心がけなどを論じる。
ひょっとすると人によってはいささか古くて、いかにも学者だなという感じの主張ばかりに感じるむきもあるかもしれない。しかし、長い研究生活で多量の本を渉猟してきた著者の残した数々の読書論は、分かりやすくも重量感がある。
本書にある読書論は非常にシンプルではある。読書に限っておおざっぱにまとめると、「古典を読め」「難解でも屈せず何度も挑め」「本に書き込みをしよう」「読むだけでなく自分で思索もしよう」「本は選んで買え」「読後は何か書き残しておくべき」といった内容になる。しかしながら、どれも実際にやってみようと思うとなかなか難しい。分かっていてもどうしてもハードルが高い。
また、どれも著者の経験だけでなく、福沢諭吉らも同じように読書に向き合っていたことも示されている。彼らの読書メモや本への書き込みなどが実際に史料として残っている。それらを紹介しながら読者に主張をしており、やはり説得力がある。
このあたりのハードルの高さは、やはり読書という行為への向き合い方のギャップにあるのではないかとも感じる。特に古典に挑む意義を強調しているところからは、テクニカルな読書論ではなく、読書を通した〝教養論〟を感じる。読書で何を陶冶したいかを突き詰めると、今の世まで残っている古典に戻らざるを得ないのもうなずける。しかも著者は古典についてこう書いている。
直ぐ役に立つ人間は直ぐ役に立たなくなるとは至言である。同様の意味に於て、直ぐ役に立つ本は直ぐ役に立たなくなる本であるといへる。人を眼界廣き思想の山頂に登らしめ、精神を飛翔せしめ、人に思索と省察とを促して、人類の運命に影響を與へて來た古典といふものは、右にいふ卑近の意味では、寧ろ役に立たない本であらう。併しこの、直ぐには役に立たない本によつて、今日まで人間の精神は養はれ、人類の文化は進められて來たのである。(p.12)
面白い。量や手軽さ、分かりやすさを本に求める昨今の風潮に対する警鐘や皮肉にも思える。このあたりはショウペンハウエル著「読書について」の影響を受けているのもよく分かる。しかし、実際に著者も書斎と蔵書について論じた部分で、何でこんな本を買っちゃったのかなぁってことがある、みたいな感じで反省をしている。そしてそれを受けて「購書家の自戒すべきは、急場の間に合せる為め兎角手頃な便利な本を買ふということである。これもしたくないとは思ひつゝ屡々する(p.122)」と戒めている。思い当たる点が多い指摘だ。
また、「難解でも屈せず、何度も本に挑め」という主張からは、読書に本気で向き合う覚悟が求められていると感じる。もちろん、趣味で気軽に楽しむ読書もいいけれど、自分自身と戦いながら自己を高めるとなれば、難しい古典とぶつからなければならない。ともすると、こんな格闘から逃れようと手軽な本に走ってしまうかもしれない。しかし、そもそも古典だって一度読んだだけでは分からないもので、思わず逃げたくもなる。だからこそ古典とも言えるのだが、そんな壁に何度も体当たりをして乗り越え、何かをつかんだ瞬間の快感は忘れがたい。これは古典に臨む醍醐味だろうと思う。
もちろんたくさん本を次々と読めるに越したことはない。しかし、じっくりゆっくり読む価値の高い本に挑めばいいと本書はそっと教えてくれる。そこに安心する。どうしてもたくさん本を読んで、たくさんの知識を得なければならないと急かされるようなご時世ではあるが、そういう中だからこそ古典をはじめとする読むべき本と時間をかけて対話することの意義を伝えてくれる。格式の高さが伝わってくる本ではあるものの、いかに本に向き合うべきか、本当に読むべき本とは何かといった根源的なことを考えさせる。まだまだハードルが高いと思ってしまっても、著者の主張に漂うエッセンスを感じ取るだけでもこれからの読書生活には何か違いが出てくるのではないだろうか。