執念の取材が織りなす小説のリアリティ:吉村昭「史実を歩く」(文春文庫)
2014年3月25日
1998年発行。文庫版は2008年。
吉村昭氏(1927~2006年)といえば、近現代を舞台にした戦史・歴史小説の大家。多くの作品を残しており、ぼくもそのいくつかを読んでいる。その魅力はとても細かい描写から浮かび上がる人間ドラマ。その筆致にその場の風景や緊張感が伝わってくるところにゾクゾクする。
この本は吉村氏が、そんな作品執筆に向けた史料収集や取材行をまとめたいわばエッセイだ。面白いのはこの取材の数々ですら、ドキュメンタリーとして楽しめるところ。小説執筆の裏話でありながら、一つの作品としてきちんと成立しているのだ。
収録されているのは「破獄」「長英逃亡」「海の祭礼」「桜田門外ノ変」など名作の取材エピソードだ。資料収集のほか、ゆかりの地を訪れ現地の図書館などを巡って取材テーマの情報を集める。その中で、さまざまな謎が立ちはだかるが、多くの協力者の手助けを得ながら乗り越えていく。まるで探偵が事実を探すかのような展開で、読んでいて飽きない。その取材によって書かれた小説を読んでいなくても楽しめる。
これらを読んで感じるのは、吉村氏は名文家でありながら、さらには職人ともいえるまでの「取材のプロ」であるということだ。
先述の通り、吉村氏は執筆のためにゆかりの地を訪れる旅に出る。そして、各地の研究家や登場人物の子孫を探し出して根ほり葉ほりと話を聞く。しかも、大学の研究者といった人たちだけでなく、市井のいわゆるアマチュア研究家にも会いに行く。そこで今まで史料だけでは分からなかった新しい事実を発見したり、これまでの定説を覆すかのような史料に出会ったりと、取材記録でありながらドキュメンタリーの趣もある。
「桜田門外ノ変」の執筆では、桜田門外の変があった日の天候まで追いかける。事件は雪の日であったが、その雪はいつやんだのか。事件と同時代の人たちが残した日記などを基に、その正確な時間を突き止めようとする。山場である事件のシーンの臨場感に関わるからだ。
また、「生麦事件」の取材では、英国人を斬ったという史実の内容に疑問を抱く。果たして史実にあるようにうまく太刀を振ることができるのか。ほんの数行の表現のために、その真相を確かめるべく武道の専門家を訪ねて鹿児島まで飛ぶ。こちらも山場のシーンを描写する表現にこだわるからこそだ。
これらのたゆまぬ探求心とこだわりが、小説の一文一文それぞれにリアリティを与えているのが分かる。これでもかという取材に裏打ちされた史実が、文章だけでなく行間に豊かな臨場感を与えて小説全体の質を限りなく高めている。
吉村氏の作品は実際の史実に基づくとはいえ、フィクションではある。しかし、たった数行の表現にこだわる姿勢がこれでもかと伝わってくる。そんな数行の表現のためでありながら、突き詰めた取材と資料の「裏取り」作業を続ける。それはまさに職人芸の域だと思わず嘆息する。
よく「神は細部に宿る」などと言うが、吉村氏のこのような取材へのこだわりを読むと、一文に思いを込める作家の執念を感じる。ひるがえって自分はどうだろうか。比較するのも失礼な話だが、ただ何となく文を書いていないか。また、資料を集めるだけでなくきちんと「現場を踏む」という取材の基本を徹底して貫いている姿に、表現にこだわる執念を感じる。これぞ文豪。
小説の面白さはこのような、一文にかける執念こそが下地となっているという、言われてみれば基本的なことを改めて痛感する内容になっている。しかし、吉村氏の場合はこれが尋常ではない細かさだ。そんな取材記録が一つの物語に結実してしまうくらいだから、確かに小説が面白くなるはずだ。
このエッセイを読んで、それぞれの小説を読み直すとまた面白さが高まるだろう。一行一行をじっくり味わいながら読めるはずだ。取り上げられている小説で未読もまだまだあるので、これから手に取っていきたいと思う。