「リアル」に向き合い幻想を乗り越えろ:いとうせいこう「ノーライフキング」

2014年3月20日

 1988年発行。新潮文庫版は91年。

 「ライフキングには呪われた第5のバージョンがある」―。

 「ライフキング」というコンピューターゲームのとりこになった小学生たちの間に、ゲームにまつわる奇妙な噂が広がる。噂は子どもたちのネットワークを伝い、次第にエスカレートする。

 現実の事象を吸収しながら噂は増幅され、やがて子どもたちの現実を動かすまでに巨大化してしまう。とうとう社会問題に発展した子どもたちの噂に大人たちが戸惑う中、当事者の子どもたちは動き出す。噂と決別し、現実世界と向き合うために。

 いとうせいこう氏といえば、自分の中ではみうらじゅん氏の「スライドショー」でツッコミを入れまくる人であり、「うんちく王決定戦」の司会の人である。

 それはさておき、これは映画化もされた小説だが、ストーリーはやや大味なところもあり賛否は分かれているようだ。しかしながら何回か読み返すと、そのたびに面白い気づきを与えてくれる内容になっている。

 「噂」が独り歩きして、いつの間にか現実社会を動かすという例はいつの世にもある。80年代に小学生だったぼくも、主人公の子どもたちと同じく、いろいろな噂を耳にし、驚いたり怖がったりしたものだった。

 最近でも、東日本大震災直後から、ネット上を中心にさまざまな噂が飛び交った。そして多くの人たちが翻弄され、しまいには風評被害が産み落とされる様子に、人間はいつになっても噂に振り回されるものだと実感する。

 登場する子どもたちは、現実世界で起こるさまざまな事件の噂から、ゲーム「ライフキング」に隠されていると言われる「バージョンⅤ」の存在を組み立てる。理由の分からない事件に対し、ゲームの世界観を援用することで理解しようとした。そして、そこにあると噂される「ノーライフキング」の存在が、本当はないのにぼんやりと浮かび上がる。子どもたちは噂をかき集めてありもしない現実を作り出してしまったのだ。

 主人公たちの周囲で起こる理解を超えた出来事。大人だったら他愛のないことと思える些細なことだとしても、子ども故に理解できないのは当たり前だ。しかし、それらを受け入れるためにゲームの世界観と、子どもの間で流行っている噂を当てはめて必死に理解しようとする。そこに現実はない。ファンタジーだけが先行している。

 そして、そんなファンタジーが彼ら彼女らの現実を代替してしまい、自ら作り上げた幻想に怖がる。その無邪気ながらも恐ろしいムーブメントが描かれている。

 「ライフキング」という仮想世界の謎を解こうと、現実世界の事件を当てはめる行為は、子ども特有というわけでなく、大人になっても十分にありうることだ。

 分からないことを分かろうとするため、人間は何かを援用して理解しようとする。その材料をきちんと批評しながら取り入れればいいが、それがおろそかになる時がある。根も葉もない噂を信じてしまい、自らの信条や行動原理に取り入れる人は多い。ちまたにはびこる陰謀論の数々はその象徴といえる。

 登場する子どもたちは、ただ怖がるだけではない。終盤では、ゲーム内に自分自身を記録することで、この幻想と決別しようとする姿が描かれている。

 この決別は何なのか。作者がここで表現したかったことは何か。

 自分たちがつくりあげた「ノーライフキング」という幻想が、社会問題となり大人たちを戸惑わせるようにまでなった。そんな様子を前に子どもたちは無意識に危機感を覚える。ここで、主人公の少年は「リアルとは何か」という問いを深層心理下に生みだし、リアルに向けて走り出す。

 さまざまな噂と現実世界、そしてそれらを結びつける「ライフキング」の世界観。その境界線で彼らのファンタジーと現実が火花を散らしてぶつかり合う。無邪気な姿を見せながらも、「リアル」を追いかける少年たちの様子に、大人へと成長しようとする苦闘を感じるのだ。

 噂を中心としたファンタジーの世界を越え、リアルを手にしようとすることは、現実を冷静に受け止めて向き合うということにほかならない。つまり、純粋に「大人になる」ということだ。子どもたちはゲームディスクに自分のことを入力し、「ノーライフキング」という幻想を封印しようと試みた。それはすなわち、少年である自分を封じ込めて大人になろうとする儀式だったのではないか。自分の姿を入力することで、現在の自分自身を省みて大人への一歩を踏み出そうとしたのではないか。

 自分をゲーム内に封じようとするというメタファーは一種の通過儀礼と思える。大人になるための通過儀礼だ。子どもの自分をゲームに封じ込め、新しい現実へと踏み出す。ゲームというファンタジーを核にした幻想の世界でなく、本当の「リアル」へと踏み出す。そうやって「ノーライフキング」の存在を克服することが、大人への通過儀礼として描かれているのではないか。

 「リアル」に向き合うことは並大抵のことではない。事実、大人になっても冷静に現実と向き合うことができない人は多い。自分もそうかもしれない。噂や都合のいい話を引っ張ってきて、自分だけの世界を構築してその中にこもる人も多い。それは結局、通過儀礼を経ていない子どもでしかないということだ。

 この作品の主人公は小学生だが、決して子どもを揶揄するような内容ではない。むしろ大人の社会に対して「ちゃんとリアルと向き合おう」と言う、いとうせいこう氏独特の「ツッコミ」なのかもしれない。みうらじゅん氏を相手にした「スライドショー」のような。

ノーライフキング

いとうせいこう

河出書房新社

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