プライドと本心の間で揺れる人間らしさの面白み:西村賢太「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」
2014年3月10日
新潮文庫「苦役列車」所収。
前回紹介した「苦役列車」からずいぶんと時間が経ち、すでに私小説の作家として活動している四十代の北町貫多の話だ。青年期とは違い、中年の悲哀が作中に漂う。「苦役列車」と同様に生活感が非常にリアルに描かれており、そこからも相変わらずダメな感じで日々を過ごしている様子が分かる。硬派な文体でありながら、こういった生活感が痛いほど伝わってくるところがとても面白い。
さて、そんな主人公の北町だが、今作でもひねくれた性格全開だ。北町は、新人賞上がりで活躍する作家たちを見下しながら、編集者相手に悪態をついたりと相変わらずの様子。しかし、ある日そんな彼に伝えられたのは、自作が川端康成文学賞の最終選考に残ったという知らせだった。
いつもは「文学賞なんて」とけなしている北町だが、そんな知らせに心揺らぐ姿が描かれている。文学賞に冷ややかな視線でいるものの、やはり心中のどこかに名声を欲しがっている自分がいる。これまでの出自もあって、自分はもう終わっている。だからこそ私小説を書いている自分はエリート作家とは違うというプライドを持っている。しかし、一方でそんな自分の姿に「これは違う」「いつかは」という思いがちらつく。その狭間に揺らぐ姿を、この川端文学賞の最終選考という知らせをきっかけに人間臭く描いている。思わず縁起を担いで川端康成の本を買ってしまうという姿に、思わず「分かる分かる」と口にしてしまいそうになる。
この表向きのプライドと、心の中にほのかにある本心との間に立つ自分の揺らぎ。これは誰しもが何かしら持っている経験なのではないかと思う。なんと言えばいいか、謙遜の陰に隠れた本心というものは誰もが程度の差こそあれ持っているのではないか。そんな人間臭い矛盾の存在を、この作品は面白く描き出していると思う。
また、この作品では主人公の小心者ぶりも絶妙に描かれていて面白い。編集者相手に大きな態度で悪態をついてみるものの、所々で自信のなさや心細さがちらちらと姿を見せる。作りものでない正直な人間の姿で主人公に思わず好感を抱いてしまう。何と言っても自分もそんな小心者だからだ。
普段は大きな態度でいながらも、本当は小心者。名声はいらないといつも吹聴しておきながら、やっぱり作家としては賞がほしい。そんな人間の正直な姿と、その心中の動きをトレースできる作品だと思う。そんな主人公の姿から、人間本来の正直な姿を改めて感じてしまう。