「一円電車」再び

2014年1月8日

 この文書は2007年11月ごろに作成されたもので、一時インターネット上に公開していました。その後、いろいろと事情があって公開のあてがなくなってしまったので、ここに改めて掲載します。「一円電車」についてはその後、地元関係者の奮闘によって常設のレールが設置され、静態展示から動態展示になるなど保存の動きが着実に進んでいます。

はじめに

 兵庫県養父市大屋町明延。かつて、日本国内有数のスズ鉱山として栄えた町だ。しかし、1987年には円高と金属価格の暴落により、多くの貴重な鉱石を残しながら閉山した。基幹となる産業が姿を消した町は、例に漏れず、衰退していった。明延の町にかつての栄華は、残念ながら見られない。

 しかし、地元ではかつての賑わいに少しでも近づこうと願う人たちの思いが連綿と続いていた。

 「一円電車を動かそう」。ヤマの人々と明延の人々を運んだ一円電車の復活に動いた人たちがいた。そして、それは実現した。たった1日だけだったが、思いは結実した。

 2007年11月4日。たった30メートルのレールの上だけだったが、かつて人々の思いを運んでいた一円電車が動き出した。明延の再生を願う人たちの思いを乗せて。

明延鉱山と一円電車

鉱山の男をかたどった彫像

華やかりし頃を思わせる労働組合の旗=いずれも、あけのべ自然学校ドーム

 明延鉱山の歴史は古い。一説には飛鳥時代にはすでに金属の原料を産出していたといい、奈良・東大寺の大仏にも明延で産出された銅が使われたという。

 近代日本に名をはせるようになったスズの産出は1909年から。以降、金属材料の産出で近代日本を支えてきた。今の世に生きる我々にとっては足を向けて寝てはいけない場所だ。

 鉱山があるところには鉱山鉄道がある。明延の古い地図を見せてもらったことがあるが、縦横無尽に軌道を示す線が描かれており、容易に往時がしのばれる。有名なのが「明神(めいしん)電車線」と呼ばれていた路線だ。明延で採掘された鉱石を、選鉱所があった朝来市佐嚢の御子畑(みこばた)鉱山まで運ぶ路線で、片道約6キロを約30分で結んでいたという。開通は1929年で、旅客扱いが始まったのは1949年。1日の乗車人数をわかりやすくするために運賃を1円にしたことから「一円電車」の愛称で呼ばれるようになった。その後、珍しさからマスコミで取り上げられるようになり、乗客が増加。業務に支障が出るということで部外者の乗車ができなくなったのは有名な話だ。

 「日本一のスズ鉱山」として栄えた明延も、時代が下るにつれて世界経済の流れに飲まれるようになる。円高による競争力低下と金属価格の暴落で収支が合わなくなり、1987年には閉山を余儀なくされた。まだ山には多くの鉱石が眠っているという。金属価格が馬鹿みたいに高くなっている昨今、本当に残念な話だ。

 明神電車も閉山と同じくして廃線となる。路線のほとんどを占めていたトンネル区間の入り口は固く閉ざされ、レールのほとんどがはぎ取られてしまった。唯一残されたのが、明延や御子畑など数カ所に保存展示されていた、客車や機関車たちだけだった。

「一円電車」復活運行へ

レールに乗せられたくろがね号

くろがね号の設計図も展示されていた=あけのべ自然学校ドーム

 一円電車復活の話が出はじめたのは、今年の夏だったという。地元明延区の住民らが、閉山から20年を期に企画した「ふるさと明延まつり」での目玉イベントの内容を考えていたところ、けいてつ協会のスタッフが明延振興館前に展示されていた客車「くろがね号」を見て一言。「走れるかも」。

 ここから話が進み始める。「明延のシンボルでもある一円電車の復活運行を」という話自体は、以前からたびたび上がっていたというが、費用や施設面でどうしても難しい点が多く、実現には至らなかった。しかし、今回は「一円電車」を中心に、鉱山華やかりしころを知る人たちが集まり、実現にこぎ着けた。レールは鉱山敷地内に保線用として残されていたものを使用。明延鉱山の下請けをしていたという地元鉄工所が据え付けた。機関車は大阪市内の業者から同ゲージのものを借用した。当時使われていたスタンプと朱肉を使って切符も復刻。地元住民が一枚ずつ作った手作りだ。しかも、当日運転を手掛けるのは、当時実際に鉱山で列車の運転をしていた運転士だ。

走った!

出発式でのテープカット=明延振興館駐車場

発車を知らせる鐘の音とともに、電気機関車に引かれて動き出すくろがね号

30メートルのレールを走り終えた列車。ここから折り返す

 イベント当日は、時折小雨がぱらつく微妙な空模様。にもかかわらず、出発式が開かれる午前10時前、会場となった明延振興館の駐車場は、すでに地元住民や鉄道ファン、マスコミといった多くの来場者でにぎわっていた。関心の高さがうかがえる。

 会場には、すっかりさびて茶褐色となっているレールが敷かれており、その上には振興館前で眠っていた一円電車「くろがね号」が鎮座している。これが走るのか? 展示されていたくろがね号を知るものとして、なんだか不思議な気分だ。

 出発式では、明延区の中尾区長があいさつし、地元の子供たちが代表してテープカット。栄えある1番列車の乗客が復刻された切符を手にしてくろがね号に乗り込むと、けいてつ協会のスタッフが安全を確認。緑の手旗を振ると、機関車に取り付けられた鐘とブザーが鳴らされ、ゆっくりと車体が動き出した。

 ゴトゴトゴト……。最近の電車ではすっかり聞こえなくなった独特の音を立てて走り出した。まるでトロッコのような音を立てながらレールの上を進む。まっすぐに敷かれたレールをゆっくりと進む列車を、集まった人たちの温かい視線とカメラの砲列が追う。記念すべき瞬間だ。

 やがて、列車はレールの終端に到着。おせじにも穏やかとは言えない独特の急制動を掛けながら停車した。ここで再び沿線の安全を確認し、今度は機関車がくろがね号を押していく。

 発着位置に戻ったくろがね号から乗客が降りると、すかさずコメントをもらおうとマスコミ各社が満足そうな表情の乗客を取り囲んでいた。また、その後ろにはすでに乗車希望の人たちが行列を作り、今か今かと順番を待っている。

 再び人々を乗せたくろがね号が動き出す。ゴトゴトゴト……。たった1日の復活運行とはいえ、何か鉱山が活気にあふれていた往事の様子を想像せずにはいられない光景だ。

乗ってみた

くろがね号の車内。とても足なんてのばせない

後方の窓から外をのぞき見る

次々と人が乗り込んでいく

正面から見ると小さい車体であることがよく分かる

 いつまでも端で見ているだけではつまらない。乗ってみよう!

 くろがね号の定員は23人。復刻された切符(無料)をもらい、乗り込む。なんといっても終戦直後に造られた鉱山鉄道の客車だけあって、車体は小さい。入り口も頭をかがめて、くぐるように入らなければならない。車内でも下手をすると頭を天井にぶつけてしまう。座席もかろうじて座席と言えるような小さなもので、まるで遊園地で走っている列車のそれに似ている。体をかがめるようにして座る。かつて明神電車は明延と御子畑を約30分で結んでいたという。しかも、そのほとんどはトンネル区間だ。この体勢で30分も暗闇を過ごしていたということを考えると、腰痛持ちの自分ではどうなることやら、思いやられる。もっとも、当時の車内の様子を写した写真を見ると、ほとんど満員ということはなく、鉱山の男たちは足を伸ばして座っていたようだが。

 やがて、引き戸の扉が外から閉められる(もちろん手動)と、前方の機関車から発車を伝えるブザーが聞こえてきた。いよいよだ。

 ガタン! およそ今の電車では考えられない急発進に一瞬だけ体が傾く。乗客の口からは思わず「おぉ」というの驚き声が漏れた。そしてすぐさま、それは「おぉ~」という歓喜の声に変わった。

 車体を揺らしながらゆっくりと加速する。加速といっても歩いて追いつける速度ではあるが、床下から鋭く伝わってくる振動が新鮮だ。明らかにレールの上を走っているという揺れが、おせじにも座り心地がいいとはいえない座席から感じられる。

 約30メートル走ったレールの端に到着すると、やはり車体をガタガタと揺らす制動でゆっくりと停止。しばし静かになる車内。乗客の内心にあるわくわく感がにじみでてきて、狭い車内に充満しているような気がした。

 再び沿線のスタッフが周辺の安全を確認すると、列車が車体を揺らしながら発車。折り返して出発地点に戻り始める。

終わりに

 ある関係者の「明延には1000年以上の歴史があるわけです。その歴史はまだ終わっていないんですよ」という言葉が忘れられない。確かに、われわれは生み出され続ける歴史のほんの一点に生きているに過ぎない。1000年以上の歴史を、われわれが簡単に、おいそれと歴史の終わりだ始まりだなんだと決めつけてしまうのも、よく考えれば野暮な話だ。明延の歴史は終わってはいない。明延の歴史はまだまだ続くのだ。

参考文献

明延のまちなかで見かけた「何か」。なんかかわいい

参考リンク

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