人生の終わりを意識してこそ、今現在のよさが分かるかも:徒然草・第七段

2013年9月1日

 至極個人的なことだけれども、年齢が30歳代中盤に入り込んでしまっている。20代まではまだどこかで「自分は若い」と思っていたものの、ここまでくるとリアルに老いを意識するようになってきた。明らかに額が広くなってきているし、ちょっと階段を上れば息切れがするし、どこかに座るときは無意識に「どっこいしょ」と言ってしまうし、飲食店のおしぼりで思わず顔をじっくり念入りに拭いてしまうし、枕からは変な臭いがするし、要するにおっさんであり涙が止まらない。

 それはさておき、人によっては「まだ早い」と言うかもしれないが、ぼくはなんとなく人生のゴール、すなわち「死」を意識するようになってきている。大げさかもしれないが、やはり何となくそんな思いが日に日に強くなっていく。

 夏が終わる。これまでは何回も夏がやってくるものだと思っていた。しかし、最近は「あと何回こんな夏はやってくるのか」と冷静に考えるようになってきている。もし、70歳まで生きると仮定すれば30回とちょっと。すでに人生半分の夏を消費してしまっていることになる。

 思い起こせば子どもだったころのぼくの前には、「あれもやりたいこれもやりたい」といった限りない可能性や夢が未来に向かって広がっていた。

 しかし、この年齢になってくると1日ごとに何かを1つあきらめざるをえない。やりたくてももうできない。社会的にできない、やれない。そんなことばかりだ。一方で、その未来への新しい可能性はほとんど増えることがない。人生の折り返し地点を過ぎて、あとはいわば消化試合に過ぎない。登った山を下りるだけ。個人的にこれから先に明るいことはあまり期待していない。いちいち何をするにも機会費用を考えてしまう自分に嫌気もさすが、それだけリアルに老いがじわじわと迫っているのを体感しているのも事実といえる。

 こんな思いにぼくはどう向き合っていけばいいのだろう。

【第7段】あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに、物のはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。

 当然のごとく、見たこともない鳥部山に上がる煙について、ぼんやりと想像する。

 どうせ自分の人生は煙よろしく、いずれ空に消えていく。重く考えることはないのだろう。前向きに考えることもできるはずだ。先ほど書いた1日ごとのあきらめだって、裏を返してみれば自分が本当にやるべきことを見つける作業なのかもしれない。終わりがあるからこそ、今この瞬間が強く感じられることだってあるのでは。人生は無常だからこそいい。

かげろふの夕(ゆふべ)を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らすほどだにも、こよなう長閑(のど)けしや。あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ。

住みはてぬ世に、醜き姿を待ちえて何かはせん。命長ければ恥(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬ程にて死なんこそめやすかるべけれ。 

 長生きすることがいいことなのか悪いことなのか。兼好法師は「命長ければ恥多し」と言う。確かに「老醜を晒す」などという表現もあるくらいだから、見てくれはともかくとして老いてまで多方面に欲を見せるのはあまり印象がよくない。先の命は短いのに、何をそこまで執着するのか。考えようによっては一日一日の生き方が定まっていないからこそ、未来に何かを期待して欲張りになってしまうのではないだろうか。未来への希望と書けば格好いいが、よく考えると毎日が不満足である証拠なのかもしれない。

その程過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)で交(まじ)らはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の陽に子孫を愛してさかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなんあさましき。

 「もののあはれ」を日々感じることができれば、そんなに長寿には興味がわかなくなるのかもしれない。感じることができなくても、そういう考え方はありなのかなとも思う。「きょう1日、すごくがんばった。悔いはない。このまま死んでいい」というところまでいける生き方。そこまで至らず「あしたがあるさ」という考え方をしていると、将来への欲もふくらむ。あるいは今この瞬間への強い思いが薄れる。それを繰り返して、結局は「もののあはれ」がわからない人生を終える。その瞬間、自分は自分の人生を納得できるだろうか…。

 兼好法師は40歳くらいで死ぬのがちょうどいいと書く。時代も違うし、あくまで理想だとはいえ、自分にとって40歳は目前。さて、どうするべきか。別に無理して40歳で死ぬ必要はないのでいいのだけれども、一日一日に何が情緒を感じられるような生き方にシフトしていかなければいけないのだろう。明日があると思わず、今をいかに生きるか。少しでも日々の生活において「もののあはれ」を見つけることができる心をつくらなければならないと感じたのだった。

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