逃れられない監視の目 だからこそ生きていける:五木寛之「ガウディの夏」(角川文庫)

2013年8月23日

 個人情報を管理されることへの反発が昨今よく見られるようになってきている。「忘れられる権利」なんてのはその最たるものだが、一方で「ビッグデータ」といって蓄積された個人情報をビジネスに役立てようという動きも加速している。

 「ガウディの夏」の舞台は1980年代と思われる日本。ある広告代理店社員の男が、個人情報を集めて権力を行使しようという機関を司る男と戦う。個人が隠したいと考えるような情報を集めることそのものが、新しい権力の源泉になりうるということを作者は見抜いている。文庫版は1991年発行だが、すでに現在の高度情報化社会…というと聞こえがいいものの、要するに個人情報がどこかでビジネスに使われるという姿を予言しているのは驚きだ。

 知られたくない自分の情報がすでに知られているのではないか。そんな主人公たちの抱く疑心暗鬼の思いが、作品全体に暗い雰囲気を漂わせる。常に誰かに監視されているのではないかというもやもやした登場人物の不安が、文中からも漂う。

 恐らくは作者である五木氏自身がそのような不安をずっと感じていたからこそだと思う。作者自身が何かに追われていた。もしかすると、それは雑誌「噂の真相」方面から注がれる視線だったのかもしれないと下衆の勘ぐりもしてしまうが…。

 ただ、この作品の行き着くところはそんな監視社会からの逃亡ではあるが、人間同士のつながりがそれこそ網目のように張り巡らされている社会において、完全なる逃亡は難しい。人間は社会に所属していないと生きることはできない。その前提に立てば、みんな多かれ少なかれ後ろめたさを引き摺って生きている以上、疑心暗鬼から逃れることはできない。

 個人情報を集められて監視されるという、新しい社会の形への警告を描く中で、実はそういった社会の本質的な姿を気が付かせてくれる。人間同士がつながって社会を成り立たせている以上、監視からは逃れられない。だからこそ、ぼくたちは生きていける。その端境をいかにして歩くか。ぼくたちはどうすればいいのだろう。

ページ先頭 | HOME | 前の記事 | 目次 | 次の記事