不遇の中にも美しさを感じることができるか:徒然草・第五段
2013年8月19日
心ならずも不遇な立場に置かれた場合、自分だったらどうなるだろうか。というか、わりと現在それに似たような状況にあるが故に、流刑地にて過ごす人の心情を推察したこの段は、何か心に響くものがある。
【第五段】不幸に愁(うれへ)にしづめる人の、頭(かしら)おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで、有るか無きかに門さしこめて、待つこともなく明し暮らしたる、さるかたにあらまほし。
顕基(あきもと)の中納言のいひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。
流れるままに現状を受け止め、何か奮起することもなく日々を過ごす姿に、兼好法師は美的なものを感じたようだ。
その美的なものとはなんだろうか。無常を受け入れて、流れるままに運命を受け入れるという現実に向き合う姿だろうか。罪を背負って流刑地にいても、月を見る心は純粋だ。敗北感にさいなまれながらも美しいものを美しいと思う心は変わらない。むしろ、そんな境遇の中にそんな自分の美的感覚を再発見することこそが生き抜くために大切なことなのかもしれない。