「足るを知る」に見える内面の美しさ:徒然草・第二段

2013年7月13日

【第二段】いにしへの聖の御代の政をも忘れ、民の愁へ、國のそこなはるゝをも知らず、萬にきよらを盡して、いみじと思ひ、所狹きさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。「衣冠より馬・車に至るまで、あるにしたがいて用ゐよ。美麗を求むることなかれ」とぞ、九條殿の遺誡(ゆいかい)にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。

 前段に続いて、この段では為政者の華美な振る舞いについて戒めている。第一段を踏まえれば内容が理解しやすい。外見だけでなく、内面の美しさこそに人間の本質があると見抜いていたであろう兼好法師。仕事をいい加減にして華美な服を着たり、贅沢三昧な暮らしをしたりする為政者の姿はよっぽどに映ったのだろう。「うたて」と表現するあたり、嫌悪感とまではいかないが、相当あきれているような気がする。

 本文中に出てくる九条殿(藤原師輔)の訓戒では、「あるに従ひて用ゐよ」。順徳院の教えは「おほやけの奉り物は、疎かなるをもてよしとす」とある。いわゆる「足るを知る」というようないわば清貧の教えだが、これはこれで難しい。

 これも第一段を踏まえた話になるが、自分にとって何が足りていて何が足りていないのかは、自分の考え方次第でいかようにも変わってしまう。つまり、自分の本当の姿である内面としっかり向き合わなければ答えはでない。

 必ずしも「あるに従ひて用ゐよ」や「美麗を求むる事なかれ」といった教えが正しい考え方と断言はできないかもしれない。しかし、第一段にいう、内面から出てくる理想的な美しさを求めれば、これらの教えに帰結するのは間違いないだろう。

 真の為政者であるならば、自分の在り方をしっかり自省しさえすれば、これらの教えにいずれ行き着くはず。別の考え方をすると、変に華美な生活スタイルになってしまうのであれば、正しい為政者の器ではないということになる。為政者の在り方がこれらの教えにあるのは間違いないことだが、その教えに至るまでのプロセスや原典に興味を抱く。これは今後の研究課題となるだろう。

 いずれにせよ、兼好法師が貴族社会に接する中で、質素さに美徳を見出していたのは間違いない。

ページ先頭 | HOME | 前の記事 | 目次 | 次の記事