「美しさ」の裏付けは学問にあり でも理想像はどこ?:徒然草・第一段
2013年7月9日
【第一段】いでや、この世に生れては、願はしかるべきことこそ多かめれ。
帝の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人などたまはる際は、ゆゆしと見ゆ。その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方は、ほどにつけつつ、時に逢ひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いと口惜し。
法師ばかり羨しからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢猛(いきおいもう)に、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀聖のいひけんやうに、名聞くるしく、佛の御教に違ふらむとぞ覚ゆる。ひたふるの世すて人は、なかなかあらまほしき方もありなん。
人は、かたち・有樣の勝(すぐ)れたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性見えんこそ、口をしかるべけれ。
人品(しな)・容貌(かたち)こそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なくなりぬれば、しなくだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。
ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道、また有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走りかき、聲をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ男(おのこ)はよけれ。
第一段では、貴族社会の中で長く暮らした経験を基にして、「高貴であること」の裏付けとして、幅広い学問や教養が大切だということを説いている。
長い伝統の中で確立された「美しいもの」に対する高い評価から、理想的な人間像とは何かを語る。市井の人間からすれば、外見から伺い知る姿で高貴さを感じるのかもしれないが、貴族社会に長くいた兼好法師は、ぱっと見では分からない学問や教養の有無こそが高貴さの基礎だと気が付いていたのだろうと思う。
文中にもあるように、ほんの小さな言葉遣いや仕草が内面をさらけ出してしまう。連綿と引き継がれている伝統からくる美しさを高く評価する兼好法師にとって、そのような姿は確かに「くちをし」と感じただろう。それだけに、「ありたき事は-」と説く箇所に力が入るように思える。
また、裏を返せば「美しきもの」の裏付けである学問さえ鍛えれば、身分は関係なく、「美しきもの」に近づくことができるととらえることもできる。身分に関わらず、学問や教養こそがその人の高貴さや美しさを引き出すと見抜いていたのだろう。
とはいえ、外見の美しさを求めるためだけに学問や教養といった内面を鍛えるというのも、これはこれで本末転倒な話なのかもしれない。ともすれば、美しさどころかあさましさしか出てこない。「ひたふる世捨人」を「あらまほしき(理想的)」と評しているあたりから、外見の高貴さとは違った「美しさ」とは何かという点を考えていたのかもしれない。
今の世にも「人として内面を磨く」とはよく言われるフレーズだ。しかし、具体的に何をすればいいのかは千差万別、百花繚乱、魑魅魍魎といったところ。求めるべき道は多すぎて、どこをどう歩いたらいいのか見失いがちだ。果たして「あらまほしき」道とはどの方向なのだろうと思案に暮れる。