「狂気」の発露で精神に新しい秩序を:徒然草・序段
2013年7月6日
【序段】つれづれなるまゝに、日暮らし、硯(すずり)に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂(ものぐる)ほしけれ。
「徒然草」は以前からじっくりと鑑賞に取り組みたいと思っていた。いろいろ時間がとれるようになったので、ゆっくりと読み進めていきたい。
序段で兼好法師は、随筆をしたためる自分の姿を見て「狂気じみた感じだ」と表現している(もっとも、この解釈には諸説あるらしい)。
なぜそのように思ったのだろうか。ぼんやりと想像するに、筆を動かしている最中ふと我に返り、何となく感じた気恥ずかしさを謙遜してそう書いたのではないか。
誰に頼まれたわけでもなくPCに向かいながら、生きのいいネタも文才もなく、このブログに何を書こうか思案している自分の姿を見てみると、そんな思いにかられるのもわかる。書いたら書いたで、何だか気恥ずかしい。兼好法師もこんな心境だったのだろうか。
これまで仕事でいろいろな文章を、他の人よりかは比較的たくさん書いてきた方だと思う。しかし、自分の内面を外にさらすような文章はほとんど書いてこなかった。
そんな自分が内面をさらけ出すような文章を書いている。その姿を冷静に見てみると、確かに狂気じみているような気もする。
内面をさらけだす文章を書くのは、いわば自分の精神をさらけだすこと。それは実のところ、とても勇気がいることであり、自発的にそれをやるのはやっぱり「狂気じみている」のかもしれない。
でも、そんなイかれたことをするのもいい。自分で自分の精神をさらけだす文章を書くことは、自分で自分の頭の中を整理することであって、これはとても知的な作業であるはずだからだ。
清水幾太郎氏は著書「論文の書き方」(岩波新書)の中でこう書いている。
文章を書くというのは、この空間的並存状態にあるものを意識的に時間的過程に流し込む仕事である。空間を時間に直すことである。(p.108)
文章を書くというのは、それによって、一つの混沌とも見られる空間的並存状態に新しい秩序を与える働きである。(p.109)
「混沌」に「新しい秩序」を与える作業とは、ここでは自分の精神に新しい秩序を与えることと考えることもできる。
自分の精神を秩序だてるためには、自分と向き合わなければならない。自分と向き合うという作業は、いくらでもごまかしが利くだけに一筋縄ではいかない。それだけに、端から見ればやはり「狂気じみている」ように見えるかもしれない。
自分と向き合い、自分に秩序を与える作業を「狂気じみた感じ」と表現した兼好法師。その表現を選び出した精神状態に思いをめぐらす。乱れているように思いがちだが、間違いなく穏やかな精神だったと思う。
さて、これからこの古典を少しずつ読み進めていきたいが、どんなことをさらけ出して教えてくれるのだろうか。